晴耕雨読とは読んで字の如く。
晴れた日は畑に出て耕作し、雨の日は家にいて読書をすること。
住宅とか、空間とか。
プロデューサーをしている僕は畑を耕すわけではなく、多くの土地や建物を見たり、たくさんの人たちに会って、ああでもない、こうでもない。そんな話をすることが「耕す」という行為になる。
でも、強がることなく言えば、この数ヶ月はめっぽう暇だ。
それでも、この春から不動産の免許も頂いて幅を広げることになったので、すべきことはあることで、廃人にならずにいるというのが現実。我社ではウェブサイトも自分たち自身の手でメンテナンスしているのでちょこちょこと触ったりする作業もある。
とはいえ、繁忙とは程遠い中で時間は見つけやすく、そして入梅しての増えた雨の日。
野菜の面倒とか、毎年恒例の梅の漬け込みとか。そんなことをいつも以上に丁寧にしても時間はある。
そこで、本を読む。
ここ数年で、近所の書店は店を閉じ、古本屋もいつの間にか更地になり、あっという間に建売住宅になってしまっている。仕方なしに、ネットで興味が湧きそうな本だったり、かねてより気になりメモをしていたような本を探してみたりする。「仕方なし」とは言ってみたりするのは、本というおよそ古の時代より変わらぬ媒体を買い求めるくせに楽してネット?などと言われるのが嫌なので言って見るだけで、実際はとても便利だ。配送は迅速だし、コンディション表示に誤りはめったに無い。
先日、司馬遼太郎の「街道をゆく」を購入した。
注文から数日後にポストに投函された本の納品書のフォントがなんとも言えない「柔らかさ」があったので捨てずに机の上に置いたままにした。ふと裏を見ると「納品書の裏書き」というタイトルでスタッフのコラムがある。
これが、心に染みる。
以下、紹介したい。
”圧しつぶされそうな日々です。自宅にこもり、危機を耐え忍ぶ。それが最善の行為だと、僕たちは十分にわかっています。それでも、テレビやスマホからひっきりなしに様々なニュースが流れ込む。この身体は家の中でじっとしていても、頭はたくさんの情報を取捨選択し、心は揺れ動く。目に見えない脅威に呼応して、目に見えない疲れが体に蓄積していきます。読書は元来、不要不急なものでしょう。僕たちの生活を直接に支えるものでは、ありません。しかし、毎日を生きる僕たちの内面に目を向けたとき、言葉は僕たちの心の火を暴風雨から守る、大切な避難所になりうるものです。こんな時だからこそ本を読もう、と高らかに語ってしまうのは、ちょっとためらいます。でも本は、世界との摩擦に擦り切れ、ざらつく僕たちの心をいやす、ひとつの手立てになるとも思うのです。(中略)いま、僕たちの魂は、弱っています。それを悲しむでもなく、鼓舞するでもなく、ただただ自分の両手で抱きしめる。このささやかな体温が、僕たちを明日へと繋ぐ手がかりになると、僕は信じています。”
信州は上田の古書を扱うあるお店のスタッフのコラム。
今回、数多ある古本の中から冒頭の一冊にたどりつき、手元に届いた。
ただ、今回の成果は文豪司馬遼太郎の著書ではなく、納品書の裏側に書かれたコラムであると断言できる。仮に司馬先生が眼前にいたとしてもそう言える自信がある。
僕はここ数年でこうも心に響くメッセージを見たことはない。
軽くため息を吐きながら本を読むことでしばしの現実逃避をすることの是非を、自分の心に問うことがないわけでもないなかで、このコラムでスッキリとしてしまったのだ。。。
同時に、こういった表現ができる彼を心から尊敬する気持ちになった。
ライフワークである街道歩きは信州を手前にした中山道碓氷峠下で中断している。
再開となったら、上田の近辺も通るはずだ。
会ってみたいと思ってやまない。
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