師走に入り、いそいそと年賀状の準備を始めた。
この一年で新たに出会った方々の宛先を整理しつつ、旧知の方々の思い出にふけるものだから、遅々として進まない。今年はコロナに支配された一年でもあったので、直接お目にかかれなかった人も多いから尚更だ。
帰宅した妻が、ポストから一枚の喪中はがきを持ち帰った。
差出人は、私たち夫婦がお付き合いをしている仕立て屋の奥さま。
仕立て屋のご亭主がなくなったのだ。
その仕立て屋は国立市にある。
国立駅から放射状にまっすぐ伸びる通りの途中にある。
私は、若い頃10年ほどこの街で暮らしていた。当時の私はお金もなく「吊るし」のスーツを着ていた。
いわゆる、一着いくら。もう一着買えば二着目は半額になります。といった具合のものだ。
仕立て屋は目立たなかったが、当時の店先にはウインドウにはストライプのイタリアンクラシコのジャケットがディスプレイされていて、洗練されたデザインとスラッとしたシルエットに憧れていた。
それでも、憧れだけでオーダースーツを仕立てる余裕ができるわけでもないのだから憧れのままだった。
時が流れ、私はとなりの立川に引っ越した。
初めて仕立て屋の扉をくぐったのはそれから。
テイラーであるご主人は三つ揃えでブルーとホワイトのストライプのシャツを着て出迎えて下さった。
仕立て屋はご亭主と奥さまのお二人で切り盛りなさっていた。
「初めてなんです」
そう告白する私に「もったいないですね。似合う身体なのに」そう笑い掛けながら手早く採寸して、生地、裏地選びから、襟、ポケットの角度、ボタン、刺繍を次々に提案して下さった。
仕立てられたスーツはまるで皮膚のように身体となって、得も言われぬ心地よさがあった。
それまでオーダーとは一定の年齢を重ねたことの通過儀礼のようなイメージを持っていた私は恥ずかしかった。憧れとは見栄やステータスなどではなく、オーダーの真髄はここにあったのだと気付かされた瞬間だ。
以来、節目ごとに仕立てて頂く関係になり、妻の一張羅のスーツも彼の手によるものだ。
そしてこの夏、久しぶりに夏物のスーツを新調することになった。
あまりにお痩せになっていたご亭主の姿に驚いた。コロナ禍の中、自宅療養とご通院を繰り返しながら病と戦っているとのこと。別人のような変わり様だったし、お馴染みのネーム入りのワイシャツの袖口はゆるくなり、全体のシルエットもまるで男性もののシャツを女性が羽織ったかのようになっていた。
ご本人は「私の仕立てたスーツを着たい」と言ってくれる人がいることが何よりの励み。療養大事として寝込んだら、きっともう起き上がれないから。だから、起きて仕立てていることが何よりの療養ですよ。と笑い、快方など待たずとも結構です。少しお時間を頂きますが精魂込めてお仕立てします。と引き受けて下さった。
仕上がりは、9月に入ったころ。
夏物のスーツを着られる時期も短くなる季節だったが、一生モノのスーツだ。
名残惜しいくらいでちょうどいい。そう思っていた。
仕上がりの連絡を頂いた時には、奥さまだけが対応してくださった。
「残暑が厳しいでしょ?だから、少し疲れちゃってるの」
「では、次は冬物ですね」
しかし、頂いた喪中はがきには9月19日永眠とあった。
私が、仕立て上がったスーツを受け取ってから一週間後のことだったわけだ。
きっと、疲れちゃっていたのではなく具合が良くなかったのだと今更ながらに気づく。
ご家族を失う悲しみは、ご家族だけのもの。
そこに、他人が悲しみ面をしたところで意味もないだろうと思う。
「体型は変わっていませんね。だったら、うちにある型紙でいつでも仕立てられますよ」
「お洒落さんだから、私も仕立て甲斐がありますよ」
いつもその気にさせてもらうのは心地よかった。
でも、心地よい言葉を掛けてもらうことはできないし、何より仕立ててくれる職人をなくしてしまった。
私は、どんなことでも「この人」という存在に出会うと「他」をつくらない。
お馴染みという存在はどのような分野にも「ひとり」しかいない。
だから、失うと露頭に迷うのだ。
別れというものはいつも突然やってくるもので、それは悲しいし、喪失感を伴うもの。
けれど、私はそれでいいと思っている。新たに仕立てが必要になったときには、素晴らしい出会いを求めて探さなくてはならない。例えば、仕立て屋のご亭主のような存在を探すのは容易ではないだろう。
それこそが信頼して託してきた人たちが、私にとってかけがえのない存在であったことの証であると思う。
私もいつかはあの世に行く。
あちらで着る服はどんなものだろう。
どんなものであっても、また同じ仕立て屋のご亭主に仕立ててもらいたい。
そう願う。
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