よいものに出会う。
人間に与えられた贅沢の中でも、ひと際味のある楽しみだ。
決して高級や高価とは同義にあらず。流行ではなく、自分自身が良いと思える品に出会う。
時にはそれらの品との出会いによって新しいひらめきが生まれることすらある。
そんな品々を独断と偏見上等とばかりに記録してゆこうと思う。
「満寿屋の原稿用紙」
左利きの僕にとっては美しい文字を書くということは憧れに近い。
他所様に書いてもらった自分の名前の方が美しいと思う。謙遜でも卑屈でもなく、心からそう思う。恐らくは文字を入力することはあっても「書く」機会が激減している現代人のなかでも僕は書いている方だと認識している。それなのに・・・
自分なりに分析した結果が左利きであることが原因なのだ。そもそも仮名も漢字も右手で書くことを前提に構成されている。アルファベットも同じだ。わかりやすく言えばペン先を引くように書くのが右利き、押すように書くのが左利き。その力加減と筆の運びがよく言えば個性的、悪く言えば不細工な文字の原因ではないかと。。。
嘆いていても仕方がないので、仕事の合間や気分転換をする時などに右手で文字を書く練習をしているのだが、左手と同じ文字数を書こうとするとこれがまた恐ろしく時間が掛かる。
それでも「千鳥足」のようなその文字でも我ながら納得できるのだ。小学生が味わう喜びを独り味わう四十三歳というのも珍しいと思う。
さて、言い訳はこのあたりで。
満寿屋の明治初期からの老舗。
原稿用紙は川端康成、大岡昇平、司馬遼太郎、井上靖、吉川英治、吉行淳之介といった文豪も愛したと言われ、満寿屋のウェブサイトによると司馬遼太郎はオイルショックに伴う紙不足を懸念して五万枚を発注したというエピソードがあるそうだ。
さて、文豪ではなく凡なる私は便箋代わりに使う。
その魅力はとにかく万年筆でもボールペンでもペン先が滑らかに進んでくれること。
多少の筆圧の差は紙質が吸収してくれる。卒業論文を書いていた頃に使っていた原稿用紙とは比べ物にならない。なにせ一枚に必ず一箇所はペン先で穴を空けるものだから、束ねようにも引っかかって苛ついていたものだ。
右手で美しい文字を書く。
優れた原稿用紙に笑われぬよう緊張してひと文字、またひと文字。
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