昨夜から狂ったように風と雨が窓を叩いている。
高校の科学の先生は「自然のなすことには意味はあるもの」という話をした。
同級生はさらりと流していたけれど、僕は少し反発したことがある。
「では、稲をなぎ倒す台風にも意味があるのですか?」
「人間には有害だろうね、農家の人たちにとっては特に」
人間以外には意味があるのだろうと言いたかったのだろうが、それ以上は聞かなかった。
吹き付ける雨と風は、バルコニーで育てている隠元を「横向き」にした。
雨のやみ間にバルコニーに出たところ、横向きになったおかげで収穫期を迎えた大量の隠元を見つけた時にふとその話を思い出した。もっとも、くだんの科学の先生はそういう意味での発言ではなかったとは思うが。
雨風が激しいからというわけではないが、建築家のD君と少し話しただけで、今日の仕事は切り上げた。
溜まっていた本でも読もう。
積み重ねた本たちのうち、一番上に積まれていた本を手に取る。
「君の悲しみが美しいから僕は手紙を書いた」
若松英輔という思想家の著書だ。
手元は、河出書房の発行で2014年の初版。
実際に手にとって読んでもらいたいから詳細は控えておく。
悲しみの淵にいる人のために、著者が11通の「手紙」という形で思いを綴ったものだ。
悲しみは違えども、淵でもがき苦しむ人々に一筋の光を差し込むような温もりのある言葉で織りなされた文章だ。
僕は今、悲しみの淵にはいない。
でも、あえてこの本を読んでみようと思ったのは、悲しみの淵に立ったときに、オロオロと泣き崩れながら読むよりも、いつか来るその時のために平常心で読んでおきたいと思ったからだ。
そして、誰もいないのに朗読してみた。
かつて、悩み苦しんだ時に五木寛之の「生きるヒント」を読んで少し気持ちが楽になったことがあるが、この本では著者が紡ぐ言葉の数々を噛み締めながら読む余裕があったような気がする。
食べ物に旬や食べごろがあるように、人は求める時に求めることが書かれた本を読むのが自然なのかもしれないが、僕は思う。あえて、今ではないが、いつか高い確率でやってくるものへの準備とか知識の積み重ねみたいなものは、「そのときではない」ときの方が意味があるかもしれないと。
つぶやき。
家もそうなんですよね。
いざ、家を欲しいなってなってからかき集めた知識とか情報って、あまりフィルタ掛からなかったりするのでファクトチェックが甘かったりして、失敗に繋がったりします。
一概には言えませんけど、差し迫ったわけではなく、なんとなく好きだからいろいろな建物を見たり、土地を見たりしている人のほうが、しっとりとした家づくりしています。
「そのときでない」人のほうが、自然な選択肢やアイデアが浮かんでくる。
そんな気がしています。
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